ナ マ 風 呂

ナマックカフェのお知らせと湯加減
「アパッチ野球軍」と難民オリンピック
  最近、記憶が曖昧で、、あれはナマックカフェをはじめて岩塩を求める旅の途上でしたか。
ペシャワールで知り合ったパシュトゥーンにともなって近郊のアフガン難民キャンプを訪れた。
ボランティアとかとは違ってチンピラな私は借金の取りたてに行く彼に同行しただけだった。
何ルピーだかは知らないが、アフガン難民のなかにはすでにパキスタン国内で商売に成功しているものもあり、戦争が長引くにしたがって地元民との経済的なやり取りも額を重ね、「カネはある所から無い所へ流れる」の掟どおり実体をともなって流通していたのであった。

何のことかと言えば、彼は日本の時代劇でよくありがちな「今日、耳を揃えて払えないんなら娘はもらっていくぜ!」的な仕事に来たのであり、私個人としてはそんなアコギな片棒を担ぎたくはないので、彼の乗用車で乗り込んだ私は「おまえは勝手におまえの仕事をしてきな。俺はここでてめえの車の番をしているから」と難民キャンプで「ひきこもり」をきめたのでした。

かなり巨大なキャンプでした。枯れたどぶ川には汚物とうんこがこびりつき(水がないので流れ去らないのです)ホコリっぽい辻つじには人糞があふれ、トタンを貼付けただけの商店では石けん、飴、たばこ、小麦、砂糖、塩、茶、ひも、米、ミスワック、オイルと何でも売っていて、ただあちらこちら「うんこ」だらけなのが上水と下水がごちゃ混ぜになった感があり、共同体生活にとって上下水インフラがいかに重要かを思い知らされたものです。これでは伝染病の脅威のただ中、公衆衛生の基本がヤバいことになっていました。

駐車したのは広場の脇でした。取りたてやを待ちながら、一服しながら車の助手席で観戦した広場の「バレーボール試合」が忘れられません。
コートというか広場はホコリっぽく、ネットは一本のロープ、皆裸足、審判もいない。チームは二つ。でもその構成要員はパシュトゥーン、ハザラ、タジク、トルクメン、ローカル民族様々、(もしかしたらパキもいたかも)、多民族混成チーム。どういう決まりでチーム対峙したかはわかりませんが
観たことも無い、手に汗握るエキサイティングなバレーボールの試合でした。その運動能力!チームワーク!個人プレイとその後のフォロー!指揮の挙げ方!キメたあとの「気」の分け前!裸足と素手と砂が巻き起こす「砂漠煙」そして多人種の笑顔!「いい試合とはこれをいうのだ!」

まいった!こいつらにはかなわん!本当につよいヤツはこんなところにいるんだ!私は初めてスポーツ観戦に興奮したのでした。
この連中はオリンピックなんかとはとーく離れてやっています。というか、誰も観ていない。観戦者はわたしだけ。

「オレったちゃ、はだかがユニホーム!」
子供の頃にみたTV. アニメの「アパッチ野球軍」を思い出しました。昭和40年代の番組でご記憶の方もいらっしゃるかも。ど田舎の(ダム工事だったかなあ?)開発現場の小学校、ある一人の野球を知る教師が赴任する(堂島コーチ)。ルールも知らなきゃ、グローブ、バットも無い。そもそも野球なんて知らない。ピッチャーは投げナイフの名人(といっても小学生の不良少年)キャッチャーは百姓の花子(だったっけな?)最初は皆素手でキャッチ。飯場育ちのオケラが外野をつとめ、山暮らしのサルがセンターフライを大ジャンプでキャッチ、親達はアル中だったりギャンブラーだったりド貧乏人だったり、村は野球をめぐってすったもんだしながら徐々に街っ児の金持ちチームとの試合にのぞむ。
貧困や差別、利権に策略、裏取引に権力者の腐敗と子供番組にしては上出来でした。
そしてそんな世界の中で素直に努力と勉強を重ね勝利をつかもうとするこどもチームの奮闘記。

世界の片隅にこそ世界一クラスの連中がいるものだな〜、と事実は小説よりマンガより奇なり、と思いました。

帰って来た相棒は貧乏なアフガン難民から現金でなくて家族が見ている最中の「カラーテレビ」をひっぱがしてきました。彼は「おい!もう少しこの試合を見ようよ!」という私の意見を無視して(すわった眼で)後部座席にころがったブラウン管テレビとともにペシャワール旧市街に向けて乗用車をだすのでした。


旅日記 | 02:26 | - | -
すずめ蜂とS
  S とは約十年ぶりだった。お互い生きて再会出来るのも不思議だ。
ヒマラヤの村はずれとはいっても、彼の住む小屋は現地の村人でも薪をとるためにしか通らない様な険しい高地にあり若干東向きの谷戸にあるため日暮れが早く、冬閉ざされた後のサバイバルは想像を絶する。多分20匹くらい犬を飼っている。自分の食事は実に粗末ながら犬達への餌は贅を極める。
 「まぶしいので日を背に座ってもいいですか?」なんて自分のうちなのに長年インドのかりの宿がしみついた旅人は突然の古い訪問客にもそつがない。この十年の間に死んだ友人達の物語、生き残った者たちの現状、日本やその他の世界の現状分析や今後の予想、会話はどんなに時間があっても足りない。ほんの二日間だったがこれほど充実するのはお互いが生きて来た証拠でもある。
 日がかたむき、日向をもとめより東斜面に座り場所を移動して仲良く二人で一服していたときである。ものすごいスピードで一匹のスズメバチが私の顔めがけてブンブン急襲してきた。目の前にいたS は「動かない方がいいですよ」近所にいるスズメバチです。と言われ、なんであの時あんなにも冷静でいられたのかは分からないが耳元でブンブン、鼻先をかすめ、羽風を感じながら「あきらめた」。へんなメディテーションである。直後今度はS の顔の周りを急襲しはじめた。その間も私はメディテーション。二人とも難を逃れた。
 この件にはほとんど触れず話は継続された。今思い返せば不思議である。現地の自然から、あるいは神々からチェックを受けた様な感触も残るが、まず耳の奥底に強力な羽音が残る。
 ニューデリーに帰る前日、元村長の息子とS の話題になった。「彼はジャパニではあるけれども、サドゥー(行者)である」やっぱりそうだとおもう。この村にはリシ(聖仙)の古い伝説もあり、S がガンガー源流ガンゴトリの話をしていたのを思い出した。

この先の話はまだ文章にできませんので生きていれば十年後にでも始められたらいいと思います。 


旅日記 | 01:14 | - | -
アランのこと
  24年ぶりにH.P. (インド)に行って思い出した。
ダラムサラのドミトリーは若いヨーロッパの白人達で、確かベットは一部屋に八つはあったかな。毎日朝からジョイントがまわり、へたなギターをひくヤツ、素っ裸でおっぱいぶるるんなおんな、モンティー・パイソンばりに気の利いたギャグを連発するおやじ、とにかく「スーパー・フリーク」にはとどかないけど「世界からはみだしたバカども」のるつぼだった。
 ロンドン出身の不良たちとも仲良くなり村はずれに住み込んだアランを紹介された。アランはパスポートを捨てたヨーロピアン・ババ、青目金髪のドレッドで(あたまに巻いた髪は三周以上)菜食主義、うわさによるとロンドンでは有名人で、彼の兄貴はもっと「すごい」とのこと。程なく友だちになった。
 「おかま」でもあるらしくとてもやさしい食事をともにした。彼がくれた「モンキー・バナナ」がわすれられない。
 ある日アランと他の外人二人で滝を越え比較的大きなトレッキングにのぞんだ。
二人は滝のあたりでリタイア。アランと私はひたすら登った。ピークで出会ったのはヤギの迷子の子供だった。メ〜メ〜泣き叫んでいるとお母さんが迷子をみつけ、家族みんなを『今度は』メ〜メ〜呼び始めた。頂上での家族の再会である。じーっと二人で見つめた。「おまえはこれでも肉を喰うのか?」その時の私の答えは「喰う」だった。
 いろいろな景色があったのだが、そのあともわれわれは歩きつづけた。人気の無い稜線でインドの国境警備兵に出くわし軽機関銃でホールド・アップされた。つたないヒンディー語では何も解決せず、約半日を銃口を向けられながら翻弄された。泣いたり、笑ったり、おどけてみせたり、哀願したり、おせいじ言ったり、あやまったり、とにかく銃をもっている相手に山奥で人知れずバラされない様に全力を尽くしたおぼえがのこる。これが『コミュニケーション』ってもんだな。
 その兵士からは夕方近くにようやく離れることができた。
帰路は山の闇だった。二人はどうやって村まで帰ることができたのだろう。アランとはその後も彼の小屋でいっしょに食事をした。きっと私がアランを忘れることができない様にアランも私のことを忘れることはないだろう。
旅日記 | 02:53 | - | -
黒板

ええ〜!そんなこと知らなくてもいいんじゃないのお〜!

 前近代になぜ興味をひかれるのだろうか?
古代になぜ憧れるのだろうか?
私たちは教育をされてしまいました。
限定された文字も知ってしまいました。
情報は氾濫しているのでしょうか?
意味はあるのでしょうか?
私たちは何を話しているのでしょうか?
ビルマ国境のある村に行った時のことです。
無文字な連中は中国向けのサトウキビ畑にその焼き畑をすべて駆逐されてしまっていて、深い轍(ワダチ)をきざむ赤土うね山の急斜面細道は片道で大型ダンプがゴールデントライアングルを削り抜け、労働の対価と自然文化の破壊を運んでいた。
貨幣とはなんなのでしょうか?
豊かになるため。進化するため。便利になるため。安全で、平和で、繁栄するため。幸せになるため。
貧しいが故に教育が受けられない、なんて不平等で悲しいじたいでしよ。
携帯電話ももてないなんて、、かわいそう。。

まあ、とりあえず、このホッタテ寺子屋はたいして機能していなかった。教師の給料予算がでないからだ。
学校はいらない。
必要なのは教化しない学校、あるいはくつがえす学校。無理かな〜?

お父さんの世代は学校に行きたくても行けなかった。
いい学校をでて立派な人になる。

きっとちゃんとした社会には学校は必要ない。
法律と同じ様に必要悪なんでしょう。
だったら、寺子屋をつくってみましょう。


これはアンチ教育とかそんなんじゃあなくて、カルチャークラブでもなくて、再生産でもなくて、「知の旅」をめざしたい。あたらしい扉を開けたい。

ええ!そうなの〜!をまきおこしたい、とおもっております。
気軽にご参加ください。

旅日記 | 03:03 | - | -
彼は何処へいったのか
  ナマ風呂の「散歩道」のコーナーでお話しした「カニーといた夏」というところで紹介した東丹沢の「経が岳」の近くの稜線には「半原越え」という峠があり、清川村から愛川町に差し掛かって「うまい湧き水」があり、ナマックカフェはよくそこの水を汲んで来ています。
 去年末の寒い(火)にまだ登っていなかった「高畑山」へ登頂し終え、水汲みのためにちがう谷筋をバイクでのぼっている時でした。
 夕暮れもちかく、暗くなる前に作業を終えようと思いながら走っていました。
もうすぐ宵闇がやってくるのに前を歩く登山者を見かけ、この時間はおりるのは分かるがのぼって行くのはなんとしたことか?と心配になりました。夜の山は本当にヤバいからです。
一旦はバイクで通り過ぎましたが、なんとなく、呼ばれたような気がしてちょっとだけ登りすすんで、やはり、気になり、U ターンしてその登山者に話しかけたのです。
 「もうすぐ暗くなりますよ、、」年配の白人である、It could be dark soon here ! What happen on you ? Can I help you ? とかなんとかいうと、「あのう〜、ちょっと上で心配なことがありまして、、」と、流暢な日本語。へんな白人のおじいさんである。格好は低山地帯にしては立派なアルピニスト風で、いまだにそのやさしげな顔が忘れられない。
 「ピークのちょっと下に車が止まっていましてなかに人がいるのだけれど、なんか様子がおかしいのです。私は通り過ぎたんですけど、心配になってしまって、彼を確認しに行こうとおもっているのです。」ははあ、こんな山の中で一人で暗くなるのに、「ヤバい」事態か、今はやりの「自殺」とか、このおじいさんはいい人だよな、他人の事を心配して、自分だって暗くなればヤバいのに、でも、「ひとりであるく」ってのはこういう事だよな、なんて勝手に了解したわたしは「私はバイクですから、すぐにチェックしてきますよ。おとうさんはここで待っていてください。」「すぐに帰ってきますから」と言い残し、バオ~ンと林道をのぼった。
 おとうさんの言うとうり左側に軽ワゴンが止まっていて中で三十がらみの男がなにかしていた。シャブ中とかだとちょっと面倒だな、なんて思いながらバイクに乗ったままヘルメットも取らずに助手席のウィンドウをコツコツ叩いた。
 「あのう〜、下であるおじさんが上にいる車の中の人が心配だって言うもんですから、ちょっと気になってお尋ねしたんですけど。大丈夫ですよね?」と訊くと
 「おれっすか?なにがっすか?ひとちがいじゃないんすか?」と大丈夫どころか「なんだよ〜!うるせえよ〜!」みたいなかんじで返ってきた。大自然の中にもたまにこういうヤツがいることに慣れていた私は、「失礼しました。おじゃましました。」と流して再度 U ターンした。

 「おとうさん、心配は入りません。ただの思い過ごしですよ。」「ああ、よかった、ただの思い過ごしだったんですね。」「よかった、よかった。」

なんという思いやりのある顔をするのだろうか。素直にうれしそうで、心配されていたヤツの顔を直前に見ていた私はそのギャップに人相の光と闇をみた気がした。実際現場は「逢う魔が時」である。すでにあたりは薄暗い。
「あなたはなにをしているのですか?」「わたしはほかの山をのぼってきていまから湧き水をくみに行くのです」「その水はおいしいのですか?」「はい。そこのピークをちょっとくだったところに湧いています。おいしいですよ。」「へえ、今度飲んでみよう。」「本当にありがとうございました。」「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました。」目と目をあわせながら会話しつつほんの短い間に我々はうちとけた。
 ヘルメットもかぶったまま、手袋もしたまま、ものすごく強い握手をした。
「またどこかでおあいしましょう!」再度 U ターンした私はまた気になって彼を振り返るといつまでも手を振っていてくれた。
 
そそくさと湧き水をタンクにつめてバイクに縛り付け来た道を帰るときこのバイクのスピードなら必ずあの白人のおとうさんに追いつくので後部座席にのせてバス停まで送ってあげよう!と意気込み一本道を薄暗闇にライトをあてながら下った。

へんなメディテーションである。この道は一本道で私はスローで、ライトをつけながら懸命に探しても彼は見当たらないのである。
横道はなく、もうすでに暗く、今度はわたしが彼を心配する。
人間ならそんなにはやく歩けるはずもなく、何処かで脇にそれて遊ぶには暗すぎて「あのおとうさんは何処にいってしまったのか?」結局彼は見つからず、あの底知れぬやさしい面影を私はいまも追ってしまうのです。

目と目で話した数分間。あたたかい握手。われわれは人間というフィルターで出会った別の何かなのかもしれません。日常的な路地裏や山林にひそむ出会いの神秘に「旅」を感じます。

旅日記 | 02:40 | - | -
すずめ蜂とアルフレッド
 この夏はずいぶん虫やヒルに悩まされた。
特にすずめ蜂は恐ろしく、山歩きをするわたしは何度もヒヤッとしている。

蜂を見るたびに思い出す男がいる。オーストリア生まれのアルフレッドである。
パキスタンの山岳少数民族の村で谷沿いの小道を裸足でルンギ(インドの腰巻き)でランニング・シャツで、腰に素焼きのパイプをさした、とことこ歩く小柄の白人。
長期旅行者でインドに長い者なら知っている「ヨーロピアン・ババ」とか「ホワイト・ババ」とか呼ばれる風体で(ババとは「おとうさん」とかサドゥ(ヒンドゥーの行者)とかの尊称)、若くて細いのになんだかしっかりしたヤツが来たな、と思っていた。
その村は小さいのですぐに知り合った。
わたしの滞在していた家よりも上流にある宿屋っぽいお宅に寄宿していたアルフレッドはヌーリスタンから流れて来た炊事係の若者がつくる半発酵の全粒粉生地を置火に入れて焼くパンを「チャパティー・ケーク」と呼び、「ものすごく!おいしいから、うちに食べにこいよ!」と誘ってくれた。実際、ものすごくおいしくて、あれを超える小麦の味は今だに出会えない。

彼は斜面にある半二階の小部屋に泊めてもらっており、よくそこでお茶を飲みながら一服した。
二人で何をでしゃべったかよく憶えてはいないのだが、彼の部屋の小窓にはいつもすずめ蜂がとまっていた。
ガラスもないその窓の木枠にじっととまってこちらを見ている。
わたしは恐ろしかったので、「おい!でかい蜂がいるぞ!なんとかしろよ!殺せよ!」と初めて招かれたときにオーダーした。
アルフレッドは「これは私のゲストです。」なにもしないから安心しろ、我々の心が相手の戦闘心を呼ぶのだからシャンティー(平和)な心でいればなにも怖くない。と言う。
とは言われても、肉食で戦闘的なすずめ蜂が最初は恐ろしく、狭い部屋の窓枠にいるので顔の細部までわかるほどの接近した間合いで、初日は常に警戒していた。

二度、三度と訪れてもそのすずめ蜂は同じ所で私らを見ていた。わたしはだんだんとそのすずめ蜂を「アルフレッドのお客さん」として認めていった。

今、思い出すと不思議である。なんでいつもあそこにいたのか?
なぜ、長いこと二人が話しながら一緒にいるのをじっとみていたのか?

何日か後には彼(すずめ蜂)の存在を自然にみとめていた。
アルフレッドは金髪で青い目で、わたしの目をのぞき込みながら、黒い抜け歯で言う、「シャンティー」。

わたしは、アルフレッドはいい旅といい出会いをして来たのだと思った。
ババ(行者)としての生き様を教えてもらった気がした。
今現在何処でどうしているのかは知らないが、遠くはなれていてもいつでも友だちである。

今でも蜂と出会って「うあ!ヤバい!」と恐怖心が巻き起こるときには、あのときの窓の陽の光を思い出す。

あの蜂こそが友だちなのだ。







旅日記 | 00:57 | - | -
ヨーグルト屋
 「ナマック旅の荒野」の岩塩を求める旅にさかのぼること、さらに多分7年前、仕事でペシャワールを訪れたわたしは忙しく買付け品の整理をしていた。
パートナーであるM.とともに毎日値切ってはたたき、探しては集め、リストを数え、「価値の移動」を当て込んでいた。
その日の仕事が終わり夕暮れも近づいたある時晩メシにヨーグルトが必要だからとなぜか町外れのヨーグルト屋に車をとばした。
ヨーグルトなんてその辺でも売っているのできっとそこのはうまいんだろうなんて思いながら付き合った。そこの親父は丁重に対応して店内の椅子に座る様すすめられ、お茶もごちそうになった。わたしのパシュトゥーン語はいいかげんなもので細かい事はほとんど分からず、二人の会話を下町のよくある挨拶程度のものに感じていた事を憶えている。
親父はやけに丁寧で外人のわたしにもにっこりしながらつくしてくれた。

ヨーグルトを買って帰る車の中でM.がおい、あいつを憶えていないか?と訊く。
え!おれの知っている者なのか?
「ほら、あのとき金貸し街に行っておまえがジャパンの社長の息子のふりをして信用させて金を借りたじゃないか、あのヨーグルト屋はあの時の金貸しじゃないか!」
ああ!そういえば思い出した!ええ!あいつだったのか!

慇懃無礼で、威圧的に小さな間口の椅子に座っていた彼はあのとき渋々金貸しを了解して、なんの愛想もなく「はやく消えろ!」ってなかんじであった。そのときのM.は腰を低く「いやあ、本当です!本当です!間違いありません!大丈夫です!お願いします!」と過激に卑屈で、ダシであるわたしは役をこなせればどうにかなる的に傍観していたように思う。
その数年後、M.は小さいながらも成功者の社長であり、わたしは相変わらずの小商人で当時上等な立場にいた金貸しはヨーグルト屋になっていた。

インシャッラー、人の人生はわからない。
おごり高ぶるものにも末路はあり、いいときは長くは続かない。
もちろん、ヨーグルト屋は金貸しよりもいい仕事かもしれない。
God knows better. 我々はみな同じである。
どうなるか分からないから、明日もがんばろうな!
なんていうM. はわざと彼の店にわたしを連れて行ったのだった。

日本人であるわたしは平家物語を思い出し、砂漠の無常観に思いを馳せた。
車のウィンドウ越しに見える風景がまさに無常であった。









旅日記 | 01:30 | - | -
出作り小屋にて
 わたしは24歳のころある村にお世話になっていた。
その村の若者たちとともに国境をこえヤギのチーズづくりのため遠い山並みの放牧地へ何日も滞在した。日々の労働はつらくとも、外ものであるわたしが部族の一員として共同作業できることは喜びであった。
石造りの出作り小屋で、枯れ草の上に雑魚寝する兄弟たちの一番の楽しみはたき火を囲んで茶をすすりながらの唄や雑談だ。
その日の出来事や下界である自分の村のこと、ささいな冗談で笑い合いじゃれあって、いびきをかく。
日の出とともにヤギたちを追い、チーズになる前の段階の乳脂を炊いてとうもろこし粉のシンプルなパンで食いつなぐ。
若い男の集まりなので仕事後の夕食後の歓談ではおのずと村のおんなの話に花が咲く。
誰々は何々ちゃんに惚れているんだぜ!ううお〜!きゃははは!!
お前は誰が好きなのか?きゃあ〜!!ばかか!おまえは!!ははははhaha!
その村にはすてきな娘がいっぱいいて、正直わたしにも気になる娘がいた。
じゃあ、山を降りたら告白しろ、とか、あいつの家はこうこうだ、とか、実はなんとかもあいつに惚れているんだぜ、とかこの手の話題は際限がなかったし盛り上がったし、実際おもしろかった。
仲良しになったある男には幸せなことに美人の許嫁がいるらしく、彼はその娘をすごく好きで大事にしていた。その話題になると皆ヒューヒュー冷やかし、「いよっ!あついねっ」の定番話のひとつだった。
わたしはうらやましくもあったが、「おめでとう、早いとこ山を降りたいもんだね」の気持ちだった。
チーズづくりもはかどり、村の冬季食料備蓄は共同の持ち回り作業でもあるため、次の若衆組が交代して、若者も都合により順番に下山することになる。
わたしも数人とともに下山した。
高山にしかない香り高い花や、薬草などを手みやげに懐かしい村に帰った。

香り高い花はたしか「ナコナガース」という名前だったとおもう。この間山に入った若者の恋の手みやげで好きな女性に渡す。
わたしには渡すべき女性がいなかったので、自分の寝床のそばで自分でその香りをたのしんでいた。
再び村の農作業に参加して山上とはちがう日常生活が過ぎていった。
わたしがその村を去る日も近づき、出作り小屋でいつも話題になったあいつとその許嫁のその後が気になり、村のものに訊いてみた。

それは意外なこたえだった。
すでにその許嫁とされる娘は嫁いでおり、当の男とはなんの関係もないのだと。
わたしは目が遠くなった。山上でのあの話はなんだったのか?

おそらくそのせつない話やヒューヒューやあれこれはあの時のみんなが了解していて、言葉もつたなく、外人で、でも兄弟のわたしがいたことも相まってあんなにも盛り上がっていたのかもしれない。あらためてその時のあいつの顔がうかぶ。
わたしはなんて子供っぽいのだろう、と、いつもその負をおいつつも未だに大人になれない自分を噛み締めながら日々を更新している。

嫉妬ややっかみはある種の病気であり、人の幸せを願う男になりたいものである。
この旅もつづく、、、





旅日記 | 05:01 | - | -
氷柱の宿


この正月休みに行った奥塩原新湯の「湯の屋旅館」からみた一枚。
こんな長い「つらら」は久しぶり。しかも透明で青空で澄んでいて、きれい。
ここは標高1000m近くにありなんでも凍っていて寒い。
寒いのは苦手だが、冬の透明感は忘れがたい。
くる春を待ちつつ凍てつく夜を思い出す。
旅日記 | 12:23 | - | -
「天崩れお落つる日」

今年の春、二年前にいただいた高崎のだるま(7周年でひとつ、8周年でもうひとつ目をいれた)をだるま寺におさめるために群馬県を訪れた。
だるま寺の裏山は円墳のある古い聖地の重ねで、さらにその山を登って眺めた風景は圧巻であった。東は赤城山から西は浅間山まで一望でき、北関東の源流域、つまり、関東平野が終わる北の水源が一望できたのだ。眼下の河沿いに町や村が形成されており、その河は長野県をまたぐ碓氷峠に到るらしい。榛名山はそこから見たちょうど真ん中にあって、遠く江戸からも「雨乞い」の儀式を行いに一部の聖職者が訪れていたようだ。
山影も美しくいっぺんに魅虜された。
翌日、高崎駅からバスに乗って訪れた。
榛名湖行きのそのローカルバスは登るにしたがって乗客がいなくなり、運転手と私だけになる。
地元観光案内と共に赤城山と榛名山をめぐる巨人伝説的な神話が語られる。
多い時で二時間に一本もない路線なので帰りの便で同じ運転手さんがむかえてくれた。往復便の帰路である。
「なんで、あんなでかい岩が落ちてこないんでしょう?」
「そうなんですよね、それが不思議なんですよ。」
「だって大地震とかあったでしょう?」
「だから、わかんないんですよ!神のわざとでもいうんでしょうか、落ちた事はないんですよ。」

それにしても、なんというところに神殿があるのだろう。細くのびあがった「ろうそく岩」の頂上にバランスを超えた巨大な岩がのっている。そのろうそく岩の麓を削って神殿が水平に「にょき出し」てっぺんの岩がまさにおっ落ってグシャンな位置にすばらしい木造彫刻がへばりついていた。
しかも、この写真ではわかりずらいが、すっごい高さの上にバカでかい巨岩がのっている。
渓谷がけずりだした険しい水墨画の奥先に奇岩の列柱門がそびえ、「なんで、またこんなところに!!」の神聖さに打たれました。

まさに自然こそが神殿。

帰ってきてから諸星大二郎先生の「天崩れ落つる日」を思い出し、榛名神社には行ったのだろうか?なんて勝手な想像をしてしまう。

それはとてこて、すごい聖地でした。「こんなことがあるものなんだ」は想像を絶しています。その日その時間訪れたのは私一人。
運転手さんに教えてもらった聖地めぐりのルートはいずれ実行に移すつもりです。

旅日記 | 02:52 | - | -
| 1/2PAGES | >>


Namak Cafe
CALENDAR
Sun Mon Tue Wed Thu Fri Sat
 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
28293031   
<< January 2018 >>
PROFILE
NEW ENTRY
CATEGORIES
ARCHIVES
LINKS
RECENT TRACKBACK
携帯QRコード
qrcode
RECOMMEND

OTHERS
SPONSORED LINKS