ナ マ 風 呂

ナマックカフェのお知らせと湯加減
言葉はむずかしい(7)〜番外編〜どらみちゃんとどらえもん

 銭湯が建て替えられると番台がなくなり、ほとんどがロビー式になって風呂屋の主人は玄関側を向いて坐り、板場や風呂に背中を向けて監視カメラのモニターを膝元で覗くことになる。

 

伝統的な番台は男湯と女湯を両方同時に俯瞰する位置に坐って監督して安全管理、会計、石けん販売から、世間話までこなす。

なかには何を話しているのか分からない程の与太者にも相づちをうち、客の手の届かない背中にクリームをぬったり、湿布をはったりと、まさに家族付き合い、街の「おとうさん」「おかあさん」といった風情がある。

 

 昔ながらの番台のある風呂やが好きな私は籐籠に脱ぎ散らかした服をそのままに、パンツ一丁で中庭にある縁側で涼んだり、板場にもどって腰痛シップを貼ったりして風呂上がりをくつろいでいた。

 

 「番台」は客の立ち目線より若干高い位置にあるため登るには脇の扉を開けるとだいたい二三段の梯子か棚が仕切ってある。

行きつけの銭湯の番台に坐ったおばあさん(多分七十半ば)はとてもやさしい人で、丸めがね、丸顔、いつもゆっくりした動作で、話し方も「まんが日本むかしばなし」の声優市原悦子が芸能界入りしないで東北の片田舎でお百姓さんをしていたら似ていたかもしれないかんじである。

 その番台のおばあさんが脇の扉を半開きにしながら座り板の下段に置いてある洗面器に手ぬぐいをしまおうとしていた。

ただ一旦降りてからしまえば姿勢が楽だが、お年寄りで面倒だったのだろう、坐ったまま下に手を伸ばしても身体がカタくてとどかない。私は小走りに近寄って代わりに手ぬぐいをしまってあげた。

 するとおばあさんが

「あら、ありがとうねえ、おばあちゃんになっちゃって、こんな固まって、手が届かなくてねえ。これじゃあ、まるでどらみちゃんだわ」「いやあねえ、どらみちゃんになっちゃって、、」

 

 って、「おかあさん、どらみちゃんはそんなんじゃないですよ!」っとは瞬時に思ったがそう言わず、

「いやあ、おかあさん、まだまだどらみちゃんなんかじゃないですよ!」

 「どらみちゃん」なんかじゃ、「まだまだ」って顔の前で片手を左右に振りつつ、口ではそう言いつつ腹の中で笑ってしまった。

「俺は何を言っているのか?」「どらみちゃんなんかじゃない?」どらみちゃんはどらえもんの妹で、未来から来た猫型ロボット。

子供たちに人気のかわいいキャラ。でも話は通じている。誤解があっても。しかもより強い伝達力で。

 

「いやあ、どらみちゃんなんて、、」とかおもいつつ板場で服を着たり持参の湧き水を飲んだりしていると、夕方の番台交代の時間になりおとうさんがやってきた。

番台は一人しか坐れないからおかあさんが扉を開けて降りようとした瞬間おとうさんが持っていたじゃら銭を板場にばらまいてしまった。「ああ、おとうさんまでどらえもんになっちゃって、まあ、しょうがないわね〜、どらえもん」

って「おかあさん、どらえもんはそう言う意味じゃないですよ!」とは言わず、笑ってじゃら銭拾いの手伝いもできず、

みんなで「どらえもん、どらえもん、」と無事番台交代もすんで、背の高いしっかりした体格のおとうさんが番台に坐った。

 

思い出す度に笑ってしまう。きっとお二人とも孫のみている「どらえもん」「どらみちゃん」は知っているのだろう。

いったいどのように解釈したのだろう。かがんだ姿のどらみちゃんが脳裏に焼き付いてはなれない。

 

っということで年末「お笑いシニフィアン、シニフィエ」の一席。

今回は「ナマ風呂」メニュー『散歩道』と『銭湯日記』の共同企画でした。

 

来年正月二日の朝湯にはまたここの銭湯にいきたいと思います。

 

散歩道 | 18:15 | - | -
言葉はむずかしい(6)
  前回(5)ではバロウズのインタヴュー記事を紹介しました。
その後古本屋でユリイカの平成4年5月号に清水俊彦さんの「カットアップ・マシーン」という文章をみつけ「カットアップ宣言」ともいえるバロウズのエッセイ『ブライアン・ガイシンのカットアップ法』という翻訳を発見しましたのであらためてご紹介したいとおもいます。
 清水さんは、「絵画や造形芸術は歴史上一般に着想においても制作の面でも共同的な性格の強い作業だったが、それとは逆に、文学は孤独な作業であり、苦行であり要塞であり、言葉の牢獄だった。」と前置きしてガイシンの言葉、
作品たちはあなた方の協力に感謝しているが、作品たちは独力で自らを作り出すこともできる。
たとえば

Come to free the words 言葉たちを解放しにやってくる
To free the words come  言葉たちを解放しにやってこい
Free the words to come 来るべき言葉たちを解放せよ
The words come to free 言葉たちが解放しにやってくる
Words come to free thee ! 言葉が汝を解放しにやってくる

可能な置き換えは5×4×3×2×1=120 つまり作者なしに120行の詩ができるのだ。
詩人ブライアン・ガイシンはどこにいるのか?
さらには日本の「万葉集」を集団的な詩歌のもっとも古い例とし、連歌の特殊性を
「類いまれな完成の域に達しながら同時に連想的な連なりの中に溶け込んで行く。自らを統合しながら、解体していくのである。つまりそれが目指しているのは独自性の解体であり、そこから大和の詩法の逆説が生まれる。われわれを支配する言語の世界のなかで自らに固有の言語を所有しようとするのだが、結局、それはそういう言語を放棄するためなのであるーーつまり、存在を目指して非存在を手に入れるのだ。それは支配する言語に自らを犠牲として差し出すことにほかならない。」
と述べている。
こういった例は西洋ではあまりないらしい。「詩はひとりによってではなく、万人によって書かれねばならない」とはロートレアモン1860年の言だが、ビートニクに先立ってシュールレアリストたちが、あるいは「ダダ宣言」のツァラがカットアップ技法の導線をひいていたようだ。

では、清水俊彦訳(1965発表に加筆)W. S バロウズ「ブライアン・ガイシンのカットアップ法」を以下に、


 1920年代に開かれたシュールレアリストある集会で、どこからともなく姿をあらわしたトリスタン・ツァラは、帽子のなかから言葉を取り出すことによって即席の詩をつくることを提案したが、そのために大騒ぎが起こり、会場にあてられた劇場はめちゃめちゃにされた。そこでアンドレ・ブルトンは彼をシュールレアリズムの運動から追放してしまった。ツァラの提案は、カット・アップという文学上の新しい手法をはじめて晙めかしたものであるが、彼を除名したブルトンが、後にフロイト的な立場からこれを基礎づけようとしたことはまことに皮肉なことである。

1959年夏、詩人、作家、画家であるブライアン・ガイシンは新聞記事をいくつかの部分に切り取り、それをアトランダムに並べ変えた。この最初のカットアップの実験から生まれたのが、パリで発表された『 Minutes to Go 』という画期的なマニフェストである。これは少しも手を加えられないカット・アップから成っているが、しかも独自の一貫性をもった、きわめて意味深長な散文となって現れている。

詩人や作家にとって、このカット・アップの手法は、過去50年程のあいだ画家たちに用いられてきたコラージュとか、映画や写真のモンタージュに匹敵するものである。実際のところ、映画や写真に見られる街頭のショットのすべては、通行人や自動車の予想し得ない要因とカット・アップの並置からなっており、自分のもっともすぐれたショットは偶然によることがかなり多いということを写真家たちもしばしばみとめている。詩人、作家の場合も同様で、最上の作品はなんらかの意味で偶然のおかげを蒙っている。しかし、カット・アップの手法が明確に打ち出されるまで、彼らは自発的に偶然を生み出す手段をもたなかった。誰でも意志の力だけを使うことによって、予知しえない自発的な要因を引き出すことができるのだ。

 この方法は千差万別だが、もっとも簡単な例をあげよう。まずある頁を選び、中央で直角に交わる二本の線を引けば1、2、3、4の四つの部分にわかれる。それらを4が1のところへ、2が3のところへくるように並べ替えれば新しい頁ができる。そして、それはもとの頁とほとんど同じようなことを言っている場合もあれば、まったく違ったことを言っている場合もあるーーこの点については、政治演説をカット・アップしてみるのが面白いーーが、いずれにせよ、新しい頁が何かを、または非常にはっきりした何かを述べていることに気がつくだろう。新聞ばかりでなく、自分の好きな詩人や作家を取り上げてもいいし、あるいは、なんども読み返した詩を対象にするのもいいだろう。言葉というものは、月日のたつにつれて意味と活力を失っていく。だlから、いますぐその詩を取り上げ、選び出したパッセージをタイプせよ。それらの抜粋でいっぱいになった頁をカットすれば、新しい詩が得られるというわけだ。このようにして、好きなだけたくさんの詩を、好きなだけたくさんのシェークスピアやランボーの詩をカット・アップせよ。「万人のための詩」とトリスタンツァラは言った。そこでアンドレ・ブルトンは、彼を盗人呼ばわりして運動から追放した。もう一度言おう。「詩は万人のためにある」と。詩は場所のようなものである。そして、ランボーをカット・アップするのは誰にとっても自由であり、そうすることによって、われわれはランボーの場所を占めることになるのだ。次に掲げるのはランボーの詩のカット・アップである


 記憶の訪れ。ただ君の踊りと声だけが家。
 郊外の空気にのってありえざる逃亡・・・・すべて調和した切望は闘争。
 大いなる空が開いている。蒸気の率直と住所が血の笑いと酔った告解を吐いている。
 ワインの匂いの小道ゆるやかな瓶を空けろ。
 大いなる空が開いている。
 至上のラッパ燃える肉子供たち霧まで


 カット・アップは万人のためにある。誰でもカット・アップをつくることができる。それは<なすべき何か>だという意味で実験的である。この場で今すぐ始めよ。それは何もしないうちから、とやかく論じたり、喋ったりするようなことではない。ギリシャの哲学者は、ある物体の二倍の重さの物体は二倍の早さで落下するだろうと推論し机から落としてみたが、そんなことは起こらなかった。なによりまず言葉をカットし、それらがどうなるかを見極めよ。シェークスピアやランボーは彼らの言葉のなかに生きている。言葉のラインをカットせよ。そうすれば彼らの声が聞こえるだろう。多くの場合、カット・アップはカットする者にとって特別な意味をもった暗号電報のようなものとして現れる。コックリさんのようだって?おそらくそうかもしれない。そして、それはありふれた手段を用いる詩人たちの、いつものみじめな出来栄えをよりよくすることは確かである。ランボーでさえ、いくつかのひどく拙い詩につきまとわれたと述べている。ランボーの詩をカットし、そのとき少なくとも個人的なものが表面に出なければ、きっとよい詩ができると思う。

 すべての創作は、実はカット・アップだといっても過言ではないだろう。より高度に読まれ、聞かれる言葉のコラージュ。いったい、その他のなんだというのだ。ハサミを使えばプロセスは明らかになり、それを拡大したり変化させたりしやすくなる。特に、明快な古典的散文は、カット・アップを並べ替えることによって、すっかり別のものに仕立て上げられる。書かれた言葉の頁をカットし、配列し直すことは、イメージにシネラマ的な変化を与え、作品に新しい次元を加えることだ。鳴り響かせるためのイメージを、鳴り響かせるための光景を嗅ぎつけるハサミのもとで、イメージは感覚機能を変え、ついには筋肉運動の知覚にまで訴えかけようとする。これこそランボーが母音の色彩とともに突入した地点であり、彼のいわゆる「諸感覚の組織的な攪乱」であり、さらにまた、さまざまな色彩を見分け、さまざまな音を感じ取り、さまざまな形を嗅ぎわけるメスカリン感覚の領域にほかならない。

 カット・アップは文学以外の分野にも適用できる。ノイマン博士は、『ゲームと実際行動の理論』のなかで、ランダムな行動についてのカット・アップ方法を、最悪の事態に対処する場合を想定しながら、ゲームと軍事戦略に導入している。ある時点で、もし戦略がランダムな要因によって決められるならば、相手はこちらの動きを予測できないから、われわれの戦略を見透すことによって優位に立つことはとうてい不可能だと思われる。この方法はまた、科学的データの処理を有効にするためにも用いられる。いかに多くに発見が偶然によって成し遂げられたことだろう。われわれは注文通りに偶然を生み出すわけにはいかないが、カット・アップはその壁を破った。映画に新しい次元を付け加えたのもその一例である。賭博のシーンのなかに、あらゆる時代とあらゆる場所の賭博のシーンを割り込ませよ。言葉やイメージをカットし、配列し直せ。最上のものがえられるというのに、二級品で我慢する理由は何もない。すべての人々のために最上のものがここにある。
 「詩は万人のためにある」


ちょっと長くなりましたが、こんなに分かりやすいバロウズの「宣言文」は貴重と思い、翻訳者である清水俊彦さんには無断で(ユリイカの掲載にしたがって最後の二節は省略で)打ちなおさせていただきました。
 暇な時にでも読んでいただければ幸いです。



散歩道 | 15:11 | - | -
後ろ姿のサラリーマン
  ヒマラヤの花の王者はきわめてめずらしいヒマカマル、「雪の蓮」だ。ある日山々をうろついていたとき私は皿のように大きな青いヒマカマルが、二つの岩の間で半分雪に埋もれて咲いているのをみかけた。見つめながら、この美しい雪の蓮との対話がはじまった。私は言った。「君はここでひとりで咲いているのか?その美しさは讃えられるためにある。誰かに贈られるべきだよ」そよ吹く風が茎をゆらし、花は少し私のほうに身をかしげて言った。「私がここでひとりきりの孤独にあると思うのね?まったくのひとりでいることは、すべてとひとつであるということ。高き山々、清らかさ、頭上にさしかける青いそらを、私は愉しんでいるわ」
〜「ヒマラヤの聖者とともに」より


孤独なのはひとりでいるからではない。
家族や仲間や恋人や組織や会社や時代や経済とともにある疎外感が人を心を旅に仕向ける。
ここにいたっていつでも旅の上。
あるく足取りがかっこいいんですよ!


散歩道 | 00:17 | - | -
「華麗なるインド神話の世界」〜1/14(横浜ユーラシア文化館にて)
 日印国交樹立60周年記念特別展

華麗なる
インド神話の世界
神々が結ぶインドと日本


ナマックカフェで何回もサイケデリックレコードライブをやってくれている Blue Sky Cafe の主催者 DJ. Kenichi こと遠藤さんはインド石版画のコレクターとしても日本国内で指折り。
和光大学〜東海大学〜福岡アジア美術館と展示が廻ってようやくここ横浜にもやってきました。
これだけの品を一度にみれる機会はめったにありません。
ユーラシア文化館はみなとみらい線「日本大道り駅」下車、駅真上のビルです。
遠藤さんのうつくしい石版画もみれます。
是非足を運んでください。

散歩道 | 15:37 | - | -
言葉はむずかしい(5)
 すいません、ちょっと長くなりそうなんでまずは「ネタ」たるバロウズのインタビュー記事から抜粋。

(カットアップについてインタビュアーから質問)

◎はさみと、このような新聞なんかの切れはしで面倒な仕事をしないで、タイプライターに向って自由連想を働かすだけだけで同じような効果が得られませんか?


◉人の脳だけではそういうことはカバーできないね。で、例えば、これを(バローズは「ネーション」誌を一部取り上げる)カットアップしてみたいのなら、多くの方法でカットアップすることが可能だ。コラムをクロスさせて読むことができる。
「今日人間の神経はわれわれを取り巻いている。外部へ行った各々の科学技術の拡大は電気的で集合的環境の行為を内包している。人間の神経の環境システムそのものはその個人と社会の価値のすべてによって再プログラム化することができる。なぜならそれが内容だから。彼はどんなラジオ網とも負けず劣らず容易に論理的にプログラムする新しい環境により呑み込まれる。感覚的秩序」

この文章が元々の文章と同じくらい筋道が立っている場合が多いことに気ずくはずだ。きみは言葉をはぶいても関連づけることを学べる。(彼は身振りする)もしここのところを真中でカットしてここの上へ置くとすれば、頭で処理しきれなくなるだろう。チェスの指し手をごちゃごちゃいっぱい頭の中で考え込んでいるようなもので、どうしようもなくなる。抑圧や選択といった精神のメカニズムもまた、きみの意思に逆らって作用するからだ。

◎最終的にはカットアップに読者を反応させるようにすることが可能だと信じていますか?


◉もちろん。というのはカットアップによって、とにかくどんなときでも働いている精神感覚プロセスが顕在化させられているからだ。新聞を読んでいるとき人の目は、一度に一個の考えには一つの文というアリストテレス風のきっちりした流儀で、ある記事を追っている。だが、同時に潜在意識下では両側の記事を読んだり、隣に坐っている人の存在に気づいている。
こういうのがカットアップだよ。あるときニューヨークの食堂でドーナツを食べコーヒーを飲んでたんだが、ニューヨークでは人は箱に閉じ込められているような感じを抱いて暮らしているのじゃないのか、つながった箱の中で、と私は考えていた。窓の外を見ると、ばかでかいイェールの箱形のトラックがあったね。これがカットアップなんだ。ーーー外部で起こっていることと、頭の中で考えていることが並置されてるってことなんだ。通りをあるいているときは、この並置を習慣づけることにしている。つまり、ここにきたら、あの標識が見えた、こう考えたと。そして家に戻ったら、これをタイプしようと。こういう素材のいくつかを使うこともあるし、使わないこともあるがね。何千ページ分のメモが生のままここにある。日記もまたつけてる。ま、いわば、ある意味では時間の中を旅してるってことだ。

たいていの人たちは周囲で起こっていることに目を向けていないんだ。作家に伝えたいメッセージはどうか目をしっかりと開けろ、まわりで起こっていることに注目せよ、ということだ。友人と街をぶらつき、「あの男を見た、いま通った人を?」ときくんだが、友人は見やしなかったね。

っということで、カットアップはどうやら文学の技法ではなく存在対処術めいた生き様指南めいてきこえるんですが、シンクロニィシティーやイメージ訓練ともとれるわけで。

この展開は次回のおたのしみ♡

散歩道 | 03:25 | - | -
笠原出展〜好評につき延長7/13(金)14(土)15(日)
 笠原出展

ふわりんぼ『睡蓮景』




ナマックカフェでも2011年にやった「ふわりんぼ」シリーズの第二弾!
わたしは先週いってきました。
天井の高いすてきなギャラリーにみごとに浮かんで咲いてます。
作家の意気込み気合いが感じられます。
しかも今回はすべて油彩に金箔!
照明を消すとたゆたゆと浮かび出すスマイル(霊素)くん。

今週末の三日間のみの展示です。
前回とはまたちがう「ふわりんぼ」をおすすめします!
会場 dragged out studio の地図その他の情報はナマ風呂のサイドバーにあるLinks をクリックしてください。
笠原さんもまってますよ〜!

散歩道 | 01:41 | - | -
言葉はむずかしい(4)
  W. バロウズのカットアップ技法は積極的に文脈あるいは意味を成立させている時空軸に介入しながら、その権力を無力化し過去にさかのぼって意味解釈を「自動書記」するものだが、主体とか意図とかを排除する技術が非常に一般的ではないために難解、あるいはひどい誤解を生んで来た。
 この解説については次回にまわすとして、厄介な事ばかり考えながら投函された広告チラシを寝る前にたらたらとみて驚愕した。

 売る情熱である広告もある特定の層に向けると極端に難解で、その特殊さが「売り」なのかもしれないが、意味のとり様によっては哲学的、物理学的、宇宙論的、SF. 的にとれるのであって「すごい」のは伝わるがはたしてなんのことやら?

とても難解なのです。以下。

撥水する。拡散する。
つまりドライの進化系。

撥水素材を使用することで肌をドライに保つ「撥水」アンダーウェアに吸水拡散機能をプラスしたフェニックスの最新アンダーウェアは、撥水と拡散を一枚のファブリックで実現。これにより、従来の鵯stレイヤーと2nd レイヤーの間で発生していた不接触による撥水・拡散のロスがない。
この新しい撥水・拡散システムは、肌に密着しているほど機能するので身体にピッタリするシルエットを採用。身体にフィットしつつ、4- Way ストレッチ素材を使用しているので、激しい動きも妨げない。

これはなんのことか?はたしてわたくしのあたまがわるいだけであろうか?
こんな、くそめんどくさい文面で話されていることは、要は下着の広告なのだが、非常に解りずらい。
 単価の高さゆえか、技術の進歩ゆえか、気にして振り返ってみるとこの様な複雑系が幅を利かせているのです。
 
 これを一言でいうと「ドラさらい気持ちええ肌着Mov'in on easy ! 」となり、なんたるバカらしさ。


散歩道 | 01:38 | - | -
言葉はむずかしい(3)
 「コミュニケーションとは、メッセージを伝えることである」と、黒田龍之介「はじめての言語学」にある。
 「言語はコミュニケーションの一部であり、そのコミュニケーションとはまとまった意味内容であるメッセージを伝えることであった。」
 では、「わからない」とはどういうことか?

1、でをコンビニ買うは久美子おにぎり。
2、無色の緑色の考えがカンカンに眠る。"Colorless green ideas sleep furiously."
3、おじさんは帽子をかぶっている。しかしおばさんはモスクワに住んでいる。

1、は文法的にわからない。(わ、は、は、)
2、は文法的には問題ないが、語彙的にわからない。(あの有名なチョムスキーが考えだした例文)
3、は文脈的にわからない。(古い語学教科書の例文)

 しかし、我々にはすべての例文がわかる。
簡単な想像力である。
「文学」の世界ではあたりまえです。
あと詩の世界までいくともっとすごい。
「だって、おもしろくねぇ?」

五感でも六感でも七感でもいいが感性はすべて連続していて理性的な言語能力なぞその一部。「音」である言葉はそもそも「対人間」だけに向けられただけではなく、無意味に感じても未知に開かれている。「言霊」なんて言わなくとも、だってそうなんだもの。

ここに各言語に優劣なし。
神の名前に偽り無し。
詩人の仕事に欺瞞なし。

なんて、どんどんといっちゃいますが「言語は記号の体系」であっても体系そのものだって絶対ではなく、「いい加減」にうつろいでいます。そんなうたかたの「意味」をあそべたら楽しいです。よね〜?




散歩道 | 03:29 | - | -
言葉はむずかしい(2)
 若い頃に知り合った、勝手にこちらでは友だちだと思い込んでいる町田 康のアナーキー・イン・ザ・3K に「蛮勇がアークちまくにアさ」という文章がありブラジル鶏を遥かに超える名翻訳を発見したので大笑い。町田は「なんという勇気であろう、彼はまったく日本語を解さぬにもかかわらず、日本でこの茶を売りたいという情熱だけで、この文章を編んだのであろう。」と讃え、噴飯ものなので以下「紙箱に印刷してあったメッセージをそのまま書き写す。」

 本物の龍井茶は各國にとの名か知也水。曾ア多くの有名ま人によつてぞれに対し詩也俳句を作ン。称えほあたニそに、枚挙に逞か無い。清の乾隆帝はその味か甘く、形かに綺麗で、色か青く、そして香しいのと。好と称え、飲入た後に目か明うく、気持ちがすいので、珍しいきのと誉あ称え遂に帝王の貢物に指し招さわだ。この活ク茶は抗州西湖の周圍にあう高山に生産され、土壌と気候に恵きれで、そして伝統のあう製造技術と近代科學を結びアさ、ふに精製された。愛用者の皆様か本旦場のアークちまく識別し、これか本物の名物龍井茶であう。

わはは、はは、は、は、こんな愉快な文かひさしぶいにアわだ。「自分はこの深く誉あ称え、気持ちがすい。これか本物の度胸・勇気であう、と思った。」ってク、ク、ク、ク、文字さ読めで幸う知也水。
 ああ気持ちがすい。

散歩道 | 00:09 | - | -
言葉はむずかしい
「 コミュニケーション」、って長いことはやってますけど。
言葉と意味と発言者自身の本意は乖離しまくっていますね。
同じ日本語を話していたって「うまく伝わらない」。
わたしの気持ちは?何処に?

本当のことを伝えたい。この気持ちを伝えたい。

でも、「言葉はむずかしい」

これはブラジル鶏のパッケージの表示。
日本語として成立してはいないが、


なんとなく言いたい事は解る、かな〜?

翻訳ソフトのなせる技でしょうか?
でも普段の言葉生活にもよ〜くあることで、追求しようとすればする程「音」と「意味」がバラバラに浮遊しはじめる。
さらに書き文字や翻訳では特殊なことではなく、意味はひとつの言語圏内でも頻繁に揺らいでいてある種の意味決定を仕向けるのは文脈と実体の未来かも、って当たり前か。

こんな雰囲気の言語表示がおもしろくて好きです。





散歩道 | 03:20 | - | -
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